ヒヤリング・アンケート調査の結果から、眺望を通した風景と人々の関わりの現状および、地域における価値をまとめると以下のようになる。
日暮里富士見坂は、周辺地域においてほとんどの人が名前も場所も知っており、訪れる頻度も高い。さらに富士山が見えるかどうかに関心がある人は、サンプル全体の9割近くにもおよぶ。坂上からの眺望の解放感〜閉塞感、の度含いに対しては、7割近くの人が解放感を感じており、その理由には「高低の差があること」「遠方まで見られること」などがあがっている。「タ日」「青空」という空の広がりの中に、遠景の自然である「富士山」が見えることを記入している人も多い。富士見坂からの風景を描写した記述の中にも、「真冬の白い富士」「タ焼けの富士山のシルエット、刻々と色が変化する」「雨上がりの天気の朝の富士」「強風のあと夕焼けが美しい。空の色をみている」といったものが見られ、自然の移り変わりを肌で感じている。坂上からの眺望にとって、富士山がかけがえのない要素となっていることが分かる。
しかし現実には不忍通り沿いの高層建築などによって、富士山の見える幅が少しずつ狭められている。このような変化に対して7割近くの人が「この風景を残して欲しい」と思っており、「やむを得ない」と思いながらもやはり「富士山が見えなくなる建物は絶対建てないこと」と答えている人もいる。実際富士山の見える時に日暮里富士見坂を訪れてみると、近くに住んでいる人が何人か来ていて「何とかこの眺めを残して欲しいものだ」と話しているのを耳にする。それだけ富士見坂から見える富士山に対する思い入れは強い。
これに対し高層ビルからの眺望は、アンケート結果で見られたように、「地に足がついていない」「生活のにおいがしない」「自然との関わりがない」ものである。そして、「見晴らしはよいが、親しみを感じない」「スベース等の問題からか、自然なムダがなく、ランドスケープはひらけても安心感、安定感は得られない」「巨大都市東京」という意見に見られるように、風景に対して人間が積極的な繋がりを持てないものであろう。一度見てしまえば済むような味わいの無い風景として受け止められている。
この地域に住む人々が、地上からの眺望と、超高層ビルからの眺望を両方体験しており、両者を自分の実感から比較してこのような意見を述べていることは、重要な問題を含んでいると思われる。地上からの眺望を体験することなく、超高層ビルからの風景だけを見て育ってきた人は、このような大地や自然を感じる感覚をなくしてしまうのではないかということである。もちろん、地上を歩き、坂を上り、公園でくつろぐといった実感を伴った体験から得られる感覚は消えることはないにしても、しかしそうした感覚すら、閉塞した都市空間にあって、ますますその範囲を狭められ、断片化したものになって行く傾向が読み取れる。
富士見坂上からは、不忍通りをはさんで本郷台地に向かって高くなっている斜面が見え、地形のうねりも感じられる。富士見坂は、「見返れぱ富士」という記述からもわかるように、坂を上り、一息ついたところで今来た道を振り返り、足で感じた地形を風景の大きな広がりの中で目で確かめることのできるという意味で、失われつつある台地とのコンタクトを感じることのできる場所なのである。坂の上からの風景というのは、近年では自動車等の交通の変化で立ち止まってじっと眺めたりすることが、比較的できにくいにも関わらず、多くの人がここからの風景を目に焼き付けている。しかも、アンケート結果で分析したように、手前の「煉瓦塀」や「桜」から、「眼下の家並み」、「谷を挟んだ向こう側の斜面地の大名銀杏」やその「地形のうねり」、「空をバックにした富士山」と、いくつもの連続したスケールで風景をとらえている。そして、富士山は遠景としてすべての風景を引き締めている。また、「タ焼けの富士山のシルエット、刻々と色が変化する」「太陽が富士の真上に落ちた時頂上から光が差し、印象に残っている」など、富士山や斜面の自然と一体になった、四季の移り変わりの中で体験される風景であることも特徴的である。「タ焼けの千駄木方面の陰影とくぼみの明るさの対比」という描写からも、このような地形のまとまりの中で、自然を感じる風景を眺望することが、人々の風景体験を豊かなものとしていることが伺える。不忍通り沿いの高層マンションは、そのまとまりを断絶するような「壁」となって間に立ちはだかり、自らは自己主張の少ない「家並み」とは対照的な建築物の集合体だと考えられる。「タ焼けに浮かぶビルがすぱらしい眺め」という意見があったが、これは遠景としてのビルであり、やはり手前の「地」となる風景があってのランドマーク的な眺めであろう。
「富士見坂」の名前は、前述したように明治半ば以降になってからつけられたもので、市街化によって東京の中心部から富士山が見える坂が次第に減少していったこと、そして、同時にこの場所から風景を眺める人々が増え、富士山が人々の意識に上るようになったことが原因である。つまり風景が何らかの形で人々に強く印象づけられ、共有された結果、次第にその意味を表した名称で呼ばれるようになったということである。環境の変化は人と風景の関わりに大きな影響を与えるが、近年の風景の激変により、このような影響が今度は非常に危機的な形で起こってきている。それは富士見坂の近所に住む彫刻家の話にあるように、「引っ越してきた当時は、富士見坂からの風景を当たり前のものだと思っていた。…ビルが建ってからは、富士山を負けじと大きく描いてしまう」という意識を生じさせた。アンケートからは、富士見坂からの風景の変化に対する人々の危機感が大きいことがわかる。「煉瓦塀が半分コンクリートになった」「本郷台地の須藤公園の緑が見えなくなった」「富士山の裾が短くなった」など、「印象深い風景」の中で挙げられていたものが、それぞれのスケールにおいて脅かされてきている。しかし、だからこそ余計に、遠景としてそれらの風景をまとめている富士山が人々の心の大きな拠り所となっているようで、風景の変化に対する不安感は、「富士山が見えなくなるかもしれない」という一点に集約されてきているとすら言うことも可能である。このような状況において、富士山に対して「眺望権を世論で認めて欲しい」という意見があるのも至極当然のことであろう。富士山は風景の変化の指標であり、かつ守るべき風景の象徴であるという新たな意味を担い始めているのである。
日暮里諏方台において、諏方神社からのパノラマ景と共に、諏方台の原風景であった坂からの富士への眺めは、手前の坂に沿つたヒューマンスケールの家や煉瓦塀から、コンケイブの地形の中でのまとまりを持った家々の屋根と斜面の緑、そして遠景の富士山という連なりにおいて、現在も人々に共有されていた。狭められつつある富士見坂からの眺望と地域の人々との関わりは、なおも非常に強いものであった。
しかし、上述のような風景の変化に対してあきらめの気持ちを持っている人も多く、事実、風景を見ることがなくなった人もいるのである。ひとたびある風景が失われてしまえぱ、それは人々の心の中や言葉、写真として残るのみであり、それ以降その場所に暮らす人がその風景を体験することはできなくなる。新しい風景ができあがっていっても、それが人々にとって魅力のないものならば、その場所に暮らす人々にとっては、非常に大きな問題である。なぜなら、自分をとりまいている環境があるにも関わらず、その環境とのコンタクトがなくなってしまうという、不自然な状態の中で生活しなけれぱならないからである。風景の退行によって生じる人々の無関心が、さらに風景の混乱を許容し、助長することになるであろう。
東京の近代化とは一面において、諏方台のような地域が持っている風景=場所性の、喪失のプロセスでもあった。結果として少し大きなスケールで見た場合、風景は特色を失い、味わいに欠けるものとなっていることは、改めて強調するまでもない。この傾向は現在も衰えているわけではなく、特に高層化と共に、風景の断片化、閉塞化が急速に進んでいる。それは人と風景=環境との関係の疎外化につながるもので、このような文脈から改めてみれば、日暮里富士見坂は、通常いわれるような風景に対する感傷やノスタルジーといった言葉だけでは済まされない問題を提示していると言える。