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富士見坂は明治18年、丘の切り崩しのために、南に約20メートル移動して現在の位置に移った。切り崩しによって、富士見坂の周りは大きく変化した。初めは名の無かったこの坂は、坂の下に畳屋があったことから畳坂、土中から骸骨がでたので骸骨坂、そして妙隆寺に通じることから妙隆寺坂とも呼ばれていた。平塚によれぱ当時まだ「富士見坂」の名前がついていなかったというから、実際にそう呼ばれるようになるのは、明治半ぱ以降のことになろう。丘を掘り崩したあとにできた平らな土地には、明治34〜35年「女子音楽体操学校」を創立したが、経営がうまく行かず手放し、のちに「花見座」という芝居小屋を経て、日活の前身の「花見寺撮影所」となった。他は分譲して住宅となったが、その後もさらに斜面は切り崩され、二度も崖崩れをおこしたという。掘った土は、田圃を埋立て、不忍通りを作るのに使われている。
明治後期の諏方神社境内の様子を、平塚は次のように述べている。「現在の境内の見晴らしになっているところは、昔は宮司の屋敷で、当時は地蔵坂の左側によしず張りの茶店が三軒あって、春・夏の夕涼み、秋は月待ちと大変な人出だった。風が通り抜けて涼しく、夏がいちぱん混んだ」。当時でも、江戸時代からの花見の名所は健在で、桜の季節には上野から飛鳥山までの花見客が押すな押すなの大盛況で、尾根道沿いの日暮里小学校では、とても授業どころではなかったという。そして諏方神社からはまだ、「東に筑波が青く霞み、春は見おろす一面の田畑がたんぽぽの黄やレンゲの赤で染まる。千住の川を行き来する白帆、見返れぱ富士」という風景が望めた。荒川が少し増水すると水のキラキラ光るのまで見えたというから、江戸時代と変わらない雄大なパノラマ景だったのであろう。当時、富士見坂の下(現在の根津・千駄木辺り)は、まだぽとんどが農家の散在する田園であったが、大正の初めから関東大震災にかけて、華族有産階級の宅地開放の余波を受けて文化的町作りが行われ、道灌山(現在の日暮里四丁目)に渡辺保全会社による日暮里渡辺町ができ、多くの芸術家等がここに住んだ。この頃から富士見坂の下の谷中初音町、千駄木坂下町(旧名)なども徐々に宅地化が進んでいる。
その後は、昭和、戦中・戦後期を通して大きい変化を見ないまま、諏訪台は高度成長期を迎える。